Blog > 2023.05.03.

読書レポ『流浪の月』――ふたりだけの真実

読書記録 ]

はじめに

 

 この記事には小説『流浪の月』のネタバレが多分に含まれます。

 未読の方の閲覧は非推奨です。

 

 昨年の暮れに小説『三日間の幸福』を読んだ。月並みな言葉だが、非常に心を動かされた。

 その感想はすぐさまTwitterという140字のボトルに収めて、電子の海に流しておいた。

 あらゆる言葉を借りながらどうにか詰め込んだ言葉は、私を揺さぶった衝撃を的確に描写できているのだろうか。

 少しでもできていない可能性があることが歯痒く、ブログを開設した折に改めて感想記事をしたためようかとも思った。

 しかし、過ぎ去った読書体験の記憶は、新鮮味をとうに失っていた。

 私は感想記事を書くことを見送った。

 

 小説『流浪の月』。

 最初は、単なる話題の本の一つとして手に取った。例の如く、買ってから数ヶ月間、本の山の一角を成していた。本の山を削る過程で、気まぐれに読み始めた。

 

 しかし、全六章あるうちの二章までを読み終えたそのとき、「この本を読んだ体験を文章にして残しておきたい」という欲望が湧き上がった。

 読んだ後と言わず、今読んでいるこの瞬間の感情と解釈を瑞々しく書き留めておきたい。

  今こそ、その欲望を実現するときだった。

 そうして筆を執ったのが、4月30日の夕暮れどきである。

 二章から一章読むごとに、私がこの本をどのように読み解いたかを記していくことにした。

 

第一章~第二章:少女は不自由を受け入れた

 

 重くて真っ赤なランドセルと、軽くて空色のカータブル。

 夜のご飯と、夜のアイスクリーム。

 家庭の外と、家の中。

 少女・更紗の世界では、二つの領域がはっきりと分かたれている。

 対極にあるその領域に、私は仮に「不自由」と「自由」という名前をつけた。

 

 自由は心地よく、不自由は息苦しい。

 そんな当たり前の感覚が、更紗の幼い心で柔らかく解れて伝わってきた。

 自由は、毛布に身をくるんだように。

 不自由は、真綿で首を絞めるように。

 

 父を失い、母をも失い、更紗を守る自由のすべてを失った更紗。

 自由な家庭に生まれた更紗にとって、自由を失うことは居場所を失うことに等しい。

 行き場のない更紗は、ロリコンと噂される大学生・文のもとに身を寄せ、文の隣を居場所とした。

 真っ赤で重たいランドセルは、公園に置いていった。

 

 文は、更紗に不自由を強いることはしなかった。

 それどころか、文は更紗にとっての自由を受け入れて、共に味わってくれる。

 更紗は、文の家で過ごすことを心地よく思っていた。

 更紗は、かつて失った自由を思うがまま享受していた。

 

 文は、自分がロリコンであることを否定しない。

 部屋に飾られたトネリコでさえも、その趣味の一端のようだった。

 

 文は、更紗が失った自由の代替品に過ぎない。

 更紗が父と母のもとで自由を享受できるのなら、そうするだろう。

 更紗もまた、文が好ましく思う少女の代替品なのかもしれない。

 更紗は日を浴びたことのない痩せっぽっちのトネリコではない。足ることを知っている、たまたま満たされていなかっただけの少女だ。

 代わりに過ぎない。だから、二人は愛し合っているわけではない。

 だが、そばにいて心地よいことだけは確かなのだろう。

 

 当然ながら、文との日々は長く続かない。

 文のしたことは、世間的には誘拐にあたるのだから。

 文と引き離され、真に自由を失ったことで、更紗の不自由への憎しみは爆発した。

 孝弘は不自由の象徴だったのだろう。孝弘への攻撃という形で憎しみを晴らし、その他の不自由を受け入れることを選んだ。

 それが、彼女の子供時代の終わりだった。

 

第三章:不自由の檻

 

 更紗は、「かわいそうな誘拐の被害者」としての生活を余儀なくされる。

 文は優しかった。本当に心を締め付けていたのは、伯母の家での生活だった。本当のことを打ち明けても、誰にも聞き入れられない。現状を打破する勇気は、ことごとく裏切られてきた。

「映画なんて、最初から観てはいなかったのだ」

 現在の彼氏・亮でさえもそれは例外ではない。更紗の思い入れのある『トゥルー・ロマンス』も、オールドバカラのワイングラスも、「かわいそうな家内更紗」を引き立てる舞台装置でしかない。更紗の内心を真に知ろうとしてくれる人はいない。大衆も友人も恋人も、誰も彼もが「かわいそうな家内更紗」という枠に更紗を押し込める。家内更紗とはそういう役である。

 真綿で首を絞めるような不自由が、更紗を支配していた。

 

 文との再会で、更紗の心は大きく揺さぶられた。

 年を経ても、文のそばは更紗にとって居心地がいい。

 「かわいそうな家内更紗」というレッテルを頑なに貼られた更紗にとって、文こそがあの二ヶ月間の「更紗」を知るよすがであった。

 職場の同僚の娘・梨花の面倒を文と共に見る生活は、十五年前のあの幸せな日々を思い出させてくれる。

 文のそばでのびのびと暮らす更紗を「自由」と文が形容した。

 更紗は、そう思われている間は屈託なく笑えていたのだろう。

 

 しかし、十五年前の事件の影は、否応なしに更紗を不自由の檻に閉じ込めた。

 更紗を真に傷つけ、恐怖に縛りつけていたものがなんなのか。その恐怖からたったひとり救い出してくれたのが誰なのか。真実を打ち明けても、もう取り返しがつかない。それは無理解と奇異の目を強めるだけだった。

 事実は、真実を意に介さない。

 それは、文に対しても同じであった。

 

 更紗に「かわいそうな家内更紗」の影がつきまとうのと同じように、

 文には「小児性愛者」の烙印が捺される。

 

 文にも、事実とは異なる真実があった。

 

第四章:自由のよすが

 

 大衆に伝わる事実とは、伝わりやすく、納得のしやすい形にしかなれない。

 真実は、より理解しがたく、独特の形と色合いをしている。

 大衆には真実こそが歪に見えるかもしれないが、当人にとっては事実の方がよほど歪なのだ。

 

 文は、生まれながらにして不自由だった。

 母の理想に押し込められた生活。痩せたトネリコは引き抜かれ、代わりに伸びるトネリコが植えられる。

 文は、痩せたトネリコだった。

 成熟しない己が身を恥じ、いつ引き抜かれるのかと怯える日々。

 繊細な問題を誰に打ち明けることもできず、文は不自由の檻の中で息をひそめて過ごしていた。

 

 文は、自分と同じく成熟していないものに安らぎを見出した。

 それが性愛であったなら、話は単純だったろう。しかし真実は違う。自らが成熟していない事実から逃避するために、成熟していないものに縋りついているだけだった。

 

 縋りつく日々に紛れ込んだのが、更紗だった。

 更紗は異彩を放つ少女だった。家に連れていく前も、後も。更紗は自由だった。不自由な文には眩しいほどの、異彩だった。

 更紗と過ごす日々は、母の作った家庭での日々とはまるで違う。心穏やかな日々だった。

 

 あの十五年前の動物園で、文は更紗の手を握った。

 喫茶店には更紗の名前をつけた。

 

 読者である私もまた、文を不自由の檻に閉じ込めていたことに気づかされた。

 更紗は、代替品ではなかった。文にとって唯一無二の、自由であるためのよすがだったのだ。

 それは、更紗にとっても同じことだったのだ。

 

第五章〜終章:ふたりの話

 

 文は身の上を打ち明け、更紗もまた文のすべてを受け入れた。

 世間は真実を知らず、事実だけを元に二人の周囲を憶測が行き交う。

 事実や憶測は二人を厄介払いするが、二人が分かたれることはなかった。

 

 梨花だけは、更紗と文の関係を真に理解していた。

 更紗と文は、互いのそばを居場所と定めた。

 それは、どんなに不躾な事実と憶測よりも心強い。

 

 当人にさえ名前のつけられない、歪な関係。

 それでも、ふたりがそばにいること。それこそがふたりにとって自由で、幸せなことなのだろう。

 

 私に分かったことは、それだけだった。

 

おわりに

 

 結論を言えば、とても私好みの物語だった。

 好きな小説は『君の膵臓をたべたい』『三日間の幸福』だとこれまでは自己紹介してきたが、ここに新たに『流浪の月』の名を連ねようと思う。ふたりにしか理解できない関係性。それを綴った物語を、私はたまらなく愛しているようだ。

 更紗や文の内面をこまやかに綴る繊細な筆致も、描き出される機微にマッチしていて、非常によかった。

 

 愛ではない。

 けれどそばにいたい。

 

 小説『流浪の月』の帯を飾る、端的な文言。

 その文言は、この小説に描かれるふたりの関係性をよく示唆していると思う。

 

 しかしながら、私はあえてその文言に異を唱えたくなった。

 ふたりの間にあるのは「愛」なのだと、主張したい。

 

 確かに、ふたりの関係は恋物語に描かれるようなものではない。愛の言葉を囁いたりはしない。体を重ねることもない。

 しかし、文の存在なくしては、自由な更紗という存在を語れない。更紗のそばには、もう両親ではなく文が自由の象徴として居座っているのだ。同様に、更紗なくして自由な文を語ることなどできない。文にとっては、更紗はたったひとり自由を教えてくれた存在だ。

 分かたれることに痛みを伴うのであれば、それはもはや比翼の鳥。

 一般的な「愛」と同じ形をしておらずとも、その情の軸とベクトルは「愛」と同じなのではないだろうか。

 

 ふたりが世間に赦されることはないのかもしれない。後ろ指を差され、追い立てられて、歪で痛ましいものとして見られるばかりなのかもしれない。

 世間の目は、更紗と文をそれぞれ不幸にし続けてきた。

 更紗も文も、十五年前のあの日から互いの幸せを祈り続けていた。

 それでも、ふたりはそばにいる。

 ふたりの間に世間はおらず、私が分け入る隙もない。

 それだけが、ふたりだけの真実で、幸福なのだ。

 

あかつきあけみ

創作小休止中の人間。

最近『ファミレスを享受せよ』をプレイしたので、深夜のファミレスに行きたい。